月: 2014年11月

  • パリに居ます。

    ていうか、明日からスペインです。

    昨日、今日は色々あり過ぎて、
    体力も、もう尽きそうなんですが、
    パリに居ますので、ちょっとだけ更新!

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    ルーブル美術館に行きました!

    完全にお上りさんです。

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    有名な入場口。

     

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    マグダラのマリア。IMG_1548.JPG

    ニケのビーナス。

    他にもモナ・リザとか、ハムラビ法典とか色々見てきましたが、
    あちこちで書き尽くされているので、この辺で。

    また、お会いしましょう!

  • WW2を考える③ 〜アウシュビッツ強制収容所〜

    『アウシュビッツ強制収容所』

    きっと誰もが聞いた事のある、
    ある種呪いにも似た響き。

    世界遺産(負の遺産とも呼ばれる)に登録された、
    有名なナチスの強制収容所です。

    『シンドラーのリスト』や、『ソフィーの選択』など、
    映画、小説、その他様々な分野で取り上げられています。

    正直、とても気が重いです。
    ワルシャワ蜂起博物館も、パヴィアク刑務所も、
    決して気軽に考えたり、文章に書いたりできるような場所では
    ありませんでしたが、そこは訪れてから2日経った今でも、
    未だ正体不明の感覚にとらわれる場所であったからです。

    しかし、できるところまで書いてみましょう。

     

     

    アウシュビッツ強制収容所は、
    ・ヨーロッパの中心にある
    ・交通至便
    ・資源、土地の利点
    という理由で特に軍の物資を生産するため、建設されました。

    「アーリア人以外をドイツに入国させない」という政策のため、
    ドイツ各地に点在していた収容所を閉じ、
    他の国に、まとめる必要ができたからです。

    しかし、アーリア人至上主義のナチスによって、この収容所は、
    「絶滅収容所」としての機能を併せ持つようになります。

    優生学を根拠に身体障害者や遺伝性疾患の患者、精神障害者、
    また、労働に適さない女性や子供、老人、ユダヤ人、
    エホバの証人、同性愛者、聖職者、さらにはこれらを匿った者。

    大半はそのままガス室に送られ、
    残った者も、あるいは劣悪な環境で強制労働をさせられ、
    あるいは人体実験の被験者となったとの事です。

    あまりにも大量の殺戮があったため、未だもって、
    その犠牲者の正確な数は不明。

    一説には数百万人がここで命を落としたという報告さえあります。

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    有名なアウシュビッツの門。
    “ARBEIT MACHT FREI”(『働けば自由になれる』)

    強制収容所のスローガンですが、よく見ると、
    Bの文字が反対に見えます。

    これは一説によると、この門を作らされた囚人の
    抵抗とする見解があるようです。

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    強制収容所の中。
    広々としているように見えますが、
    ピーク時には14万人が収容されていたとの事です。

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    被収容者は、列車から降りると、まず全てのものを接収され、
    この縦縞の囚人服が唯一の持ち物となったそうです。

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    接収された大量の鞄。

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    同じく接収された大量の眼鏡。

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    ガス室で実際に使われた薬品(チクロンB)の空き缶。

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    カス室の模型。

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    死の壁。
    多くの被収容者が、ここで銃殺されたそうです。

     

     

    ポーランドで友人になったダリウシュは、こう言いました。
    「日本だってヒロシマ、ナガサキという悲劇があっただろう」

    その通り。
    世界ではじめて、実際に核が使われ、たくさんの人が死に、
    そして、街は破壊されつくしました。

    しかし、エノラ・ゲイを操縦したかのアメリカ人は、きっと、
    そこで暮らしている人々と話す機会は無かったでしょう。

    そして、その爆弾の威力がどんなものかを、
    はっきりと想像する事はできなかったでしょう。

    しかし、顔と顔を合わせて言葉を交わすことができた人間が、
    何年もの月日、人の命を使い捨てにしたこのアウシュビッツは、
    違う残酷さを物語っているように思えるのです。

    きっと、この時代、続く戦争で疲弊した社会で、
    誰もが狂っていたんだと思います。

     

     

    しかし、この種の暴力は現代にも形を変えて残っていると思います。

    「今、会社を辞めれば仕事は無いぞ」
    「みんなもキツいんだから。お前だけじゃないんだから」
    「体内時計? そんなもん壊してしまえ」

    どれも、僕自身、実際に言われた事のある言葉です。

    人の精神を抑圧し、侵食し、
    人間性を壊す暴力は今もなお残っていて、
    それは平気で社会を闊歩します。

    そういうものをどれだけ排除し、
    次の世代によりよい社会を残せるのか。
    それが我々の世代に課せられた課題だと
    僕はそう思うのです。

  • WW2を考える② 〜パヴィアク刑務所〜

    「ワルシャワの日本人形」という本を読んだのは、
    当時住んでいた街の図書館での事でした。

    美容師を生業としていたカミラ・ジュコフスカは、
    オペラ歌手・喜波貞子(日本人とのクォーター)の
    蝶々夫人の熱烈なファンで、ワルシャワで公演がある度に、
    劇場に通ったそうです。

    喜波貞子を通し、日本文化に触れた彼女は、
    いつしか、日本そのものに興味を惹かれるようになります。

    そんな彼女も大人になり、結婚し家庭を持ちます。
    どんな時代にでも、人々の変わらない営みの中には
    確かな幸福があった事でしょう。

    しかし、彼女は反ナチスレジスタンスに参加していた事から、
    政治犯が収容されるパヴィアク刑務所に収容されてしまいます。

    死を待つのみの、その監獄の中で、
    彼女はその心の支えにするかのように、
    密かに喜波貞子をモデルにした日本人形を作ります。

     

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    ワルシャワの日本人形。
    これは今でも、パヴィアク刑務所の博物館で保存されており、
    傍らには、日本から寄贈された日本人形と並んで展示されています。

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    パヴィアク刑務所では1939年から1944年の間に、
    十数万人の囚人が収容され、殆どが反ナチスのレジスタンスメンバー。
    中には軽微な事件で収容された者もおり、
    囚人の大半が銃殺、あるいは強制収容所に送られました。

    ワルシャワ蜂起後、収容されていた囚人は全員射殺。
    ワルシャワの中心にあったこの建物自体も爆破されてしまいます。

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    IMG_1365.JPG監獄で使われた鉄具。

    IMG_1371.JPG監獄の中。

    IMG_1358.JPG収容された人々。

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    博物館のチケット売り場では、先に来た日本人の方が、
    鶴を持参しておられたようです。

    そこで、僕も持っていた折り紙で一羽折らせてもらいました。
    上の写真では分かりにくいかもしれませんが、
    黄色と赤の鶴の間にある千代紙でできた鶴が僕の作です。
    快く受け入れて下さった係の方に感謝。

    パヴィアク刑務所。
    この場所は、日本人にとって、訪れる他の外国人よりも、
    より多くの意味を持つ場所です。

    ある事を考えたり、主張したりする事が、
    死を意味する時代において、
    カミラはそれと同じくらい、
    日本を愛してくれていたのですから。