ていうか、明日からスペインです。
昨日、今日は色々あり過ぎて、
体力も、もう尽きそうなんですが、
パリに居ますので、ちょっとだけ更新!
ルーブル美術館に行きました!
完全にお上りさんです。
有名な入場口。
ニケのビーナス。
他にもモナ・リザとか、ハムラビ法典とか色々見てきましたが、
あちこちで書き尽くされているので、この辺で。
また、お会いしましょう!
『アウシュビッツ強制収容所』
きっと誰もが聞いた事のある、
ある種呪いにも似た響き。
世界遺産(負の遺産とも呼ばれる)に登録された、
有名なナチスの強制収容所です。
『シンドラーのリスト』や、『ソフィーの選択』など、
映画、小説、その他様々な分野で取り上げられています。
正直、とても気が重いです。
ワルシャワ蜂起博物館も、パヴィアク刑務所も、
決して気軽に考えたり、文章に書いたりできるような場所では
ありませんでしたが、そこは訪れてから2日経った今でも、
未だ正体不明の感覚にとらわれる場所であったからです。
しかし、できるところまで書いてみましょう。
アウシュビッツ強制収容所は、
・ヨーロッパの中心にある
・交通至便
・資源、土地の利点
という理由で特に軍の物資を生産するため、建設されました。
「アーリア人以外をドイツに入国させない」という政策のため、
ドイツ各地に点在していた収容所を閉じ、
他の国に、まとめる必要ができたからです。
しかし、アーリア人至上主義のナチスによって、この収容所は、
「絶滅収容所」としての機能を併せ持つようになります。
優生学を根拠に身体障害者や遺伝性疾患の患者、精神障害者、
また、労働に適さない女性や子供、老人、ユダヤ人、
エホバの証人、同性愛者、聖職者、さらにはこれらを匿った者。
大半はそのままガス室に送られ、
残った者も、あるいは劣悪な環境で強制労働をさせられ、
あるいは人体実験の被験者となったとの事です。
あまりにも大量の殺戮があったため、未だもって、
その犠牲者の正確な数は不明。
一説には数百万人がここで命を落としたという報告さえあります。
有名なアウシュビッツの門。
“ARBEIT MACHT FREI”(『働けば自由になれる』)
強制収容所のスローガンですが、よく見ると、
Bの文字が反対に見えます。
これは一説によると、この門を作らされた囚人の
抵抗とする見解があるようです。
強制収容所の中。
広々としているように見えますが、
ピーク時には14万人が収容されていたとの事です。
被収容者は、列車から降りると、まず全てのものを接収され、
この縦縞の囚人服が唯一の持ち物となったそうです。
接収された大量の鞄。
同じく接収された大量の眼鏡。
ガス室で実際に使われた薬品(チクロンB)の空き缶。
カス室の模型。
ポーランドで友人になったダリウシュは、こう言いました。
「日本だってヒロシマ、ナガサキという悲劇があっただろう」
その通り。
世界ではじめて、実際に核が使われ、たくさんの人が死に、
そして、街は破壊されつくしました。
しかし、エノラ・ゲイを操縦したかのアメリカ人は、きっと、
そこで暮らしている人々と話す機会は無かったでしょう。
そして、その爆弾の威力がどんなものかを、
はっきりと想像する事はできなかったでしょう。
しかし、顔と顔を合わせて言葉を交わすことができた人間が、
何年もの月日、人の命を使い捨てにしたこのアウシュビッツは、
違う残酷さを物語っているように思えるのです。
きっと、この時代、続く戦争で疲弊した社会で、
誰もが狂っていたんだと思います。
しかし、この種の暴力は現代にも形を変えて残っていると思います。
「今、会社を辞めれば仕事は無いぞ」
「みんなもキツいんだから。お前だけじゃないんだから」
「体内時計? そんなもん壊してしまえ」
どれも、僕自身、実際に言われた事のある言葉です。
人の精神を抑圧し、侵食し、
人間性を壊す暴力は今もなお残っていて、
それは平気で社会を闊歩します。
そういうものをどれだけ排除し、
次の世代によりよい社会を残せるのか。
それが我々の世代に課せられた課題だと
僕はそう思うのです。
「ワルシャワの日本人形」という本を読んだのは、
当時住んでいた街の図書館での事でした。
美容師を生業としていたカミラ・ジュコフスカは、
オペラ歌手・喜波貞子(日本人とのクォーター)の
蝶々夫人の熱烈なファンで、ワルシャワで公演がある度に、
劇場に通ったそうです。
喜波貞子を通し、日本文化に触れた彼女は、
いつしか、日本そのものに興味を惹かれるようになります。
そんな彼女も大人になり、結婚し家庭を持ちます。
どんな時代にでも、人々の変わらない営みの中には
確かな幸福があった事でしょう。
しかし、彼女は反ナチスレジスタンスに参加していた事から、
政治犯が収容されるパヴィアク刑務所に収容されてしまいます。
死を待つのみの、その監獄の中で、
彼女はその心の支えにするかのように、
密かに喜波貞子をモデルにした日本人形を作ります。
ワルシャワの日本人形。
これは今でも、パヴィアク刑務所の博物館で保存されており、
傍らには、日本から寄贈された日本人形と並んで展示されています。
パヴィアク刑務所では1939年から1944年の間に、
十数万人の囚人が収容され、殆どが反ナチスのレジスタンスメンバー。
中には軽微な事件で収容された者もおり、
囚人の大半が銃殺、あるいは強制収容所に送られました。
ワルシャワ蜂起後、収容されていた囚人は全員射殺。
ワルシャワの中心にあったこの建物自体も爆破されてしまいます。
博物館のチケット売り場では、先に来た日本人の方が、
鶴を持参しておられたようです。
そこで、僕も持っていた折り紙で一羽折らせてもらいました。
上の写真では分かりにくいかもしれませんが、
黄色と赤の鶴の間にある千代紙でできた鶴が僕の作です。
快く受け入れて下さった係の方に感謝。
パヴィアク刑務所。
この場所は、日本人にとって、訪れる他の外国人よりも、
より多くの意味を持つ場所です。
ある事を考えたり、主張したりする事が、
死を意味する時代において、
カミラはそれと同じくらい、
日本を愛してくれていたのですから。